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まだ見ぬ「青」を求めて|佐野ぬい展を訪れて

まだ見ぬ「青」を求めて|佐野ぬい展を訪れて

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青森県立美術館で開催中の佐野ぬい|まだ見ぬ「青」を求めてに触れた。弘前市出身の画家・佐野ぬいさん。青を基調とした独創的な抽象表現で知られ、90歳で亡くなるまで70年を超える画業を続けてきた画家。青を描く人。そう聞くと、勝手に冷たい色や静けさのイメージを思い浮かべてしまう。けれど、今回の展示を歩きながら目に飛び込んできたのは、むしろ青が他の色を輝かせる場として存在しているという感覚。赤やピンクがキャンバスに散らされ、青の余韻を深めていく。そこにはリズムがある。 

ここ数年、展覧会に興味を持つようになった。県内外の展示をふらふらと訪れては、作品の前に立ち、自分なりの感覚で言葉を探してみる。正直なところ、美術史や技法について体系的な知識があるわけじゃない。専門用語でかっこつけようとしても、途中であれ、この単語って意味合ってるのかなって心の中で赤っ恥をかくから、もうやめた。ただ、自分の感覚をそのまま書く。これが一番安心する。

でも、いつか自分がなにか旗を振る立場になるかもしれない。そのときに美術館で何を見たか、そこで何を考えたかを一つでも二つでも持っておきたい。だから、いまのうちに少しでも学んでおきたいと思っている。勉強というよりも、種をポケットに入れておく、みたいな感じ。

会場に入ると、初期の模写作品が並んでいた。モディリアーニの模倣。まだ若い画家が、遠いパリに憧れて、少しずつ、ミロやマティスの影響を吸収していく。やがて独自の色彩へと進化していく。その過程が、順を追って展示されていた。

佐野さんの青へたどり着くまでのプロセス。

美術館の白い壁に沿って歩きながら、その軌跡を追うのは、まるで他人の日記をこっそり覗いているような不思議な感覚。ぼく自身、現代美術や近代の作品、いや大体の美術に触れるとき、どうしても言葉が追いつかなくなる。

バスキアの作品が好きだ。ありきたりな感想だとわかっているけれど。記してみる。

荒々しい線やコラージュに潜む断片的なメッセージ。意味を断ち切るような手法がむしろ強い物語を生んでいる。そんな目で今回の佐野ぬい展を見ると、一部のコラージュ作品にはどこか通じる断片が感じられた。違ったのは、柔らかさ。

青という言葉で括られる画家なのに、自分が強く惹かれたのは青そのものではなく、余白と蛍光色の配置バランスだったということ。青はキャンバスの中心にあるけれど、それを支えるのは余白であり、脇に置かれた赤やピンクの対比。つまり青は主役というより、他の色や形のリズムを受け止めて調和させる舞台。

展示を見ながら、ふと自分自身のこれからを考えていた。ぼくはいま、グラフィックデザインという領域で仕事をしている。毎日、色や文字や余白と向き合っている。作品世界は違えど、何を主役にし、何を支える役にするかという視点は、佐野ぬいさんの絵から学べる気がする。

彼女が70年以上かけて築いた抽象表現を、ぼくはほんの1時間ほどで駆け抜けただけだ。けれど、その時間が心に残した余白は大きい。人の人生や表現を追体験することは、きっと自分が将来なにかを旗揚げする日のための訓練でもある。

どんな色を選び、どんな余白を残すか。

その問いを、絵の前で静かに受け取った。

アートは、結局スタイルによって息づくものなのだとぼくは思う。

青森県立美術館を出ると、空はどこまでも高く、秋の気配が濃くなっていた。

展示で見た青と、頭上に広がる青が、ほんの少し重なり合う。

 

でもやっぱり同じではない。

 

空の青は気まぐれで、時間とともに淡く移ろう。佐野ぬいの青は、赤やピンクの隣に置かれてこそ変化し、響きを深めていた。

秋は昔から好きな季節だ。

春よりも、夏よりも、秋はどこか尊い。
秋は眠りにつく前の一瞬の静けさ、みたいな顔をしている。
ぼくはつい、薄着のまま風にあたって、風邪をひいてもいいやと思ってしまう。実際に風邪をひいたらめんどうなんだけど、そのめんどうすらも秋の味の一部みたいで、つい許してしまう。仕事も休める…

季節ごとにいろんな青がある。

青森に生まれた人間にとって、青はずっと隣にある。
県の名が青森。
空、海、冬は雪の白に押しつぶされそうになりながらも、空気の奥にはやっぱり空の青がしぶとくいる。
その青は、青森にいるときはちょっとリンクさせたくない気持ちもある。
またかと思ってしまう。

ところが一歩県外に出ると、その青が妙に愛おしくなる。

東京や大阪のビルの谷間にいるとき、不意に青森の青を思い出してしまう。
ああ、あれはもしかしたら自分にとって、大切なパズルのピースだったのかもしれない、と。
ただ、青森の中にいる自分には、そのことがなかなかわからない。

佐野ぬいさんも、きっとそうだったんじゃないかと思う仮説。
パリを夢見て、東京で学び、母校で後進を育て、最後まで絵筆を握り続けた彼女。
青森を心のどこかに忍ばせながら、好きな音楽を聴いて、身の回りに転がっている青を拾い集めて、自分の画業のひとつひとつのピースに組み込んでいったんじゃないか。

ぼくらもまた、それぞれの青を探しながら生きている。
それは大仰に聞こえるし、こうやって書いてみても、なんだかちょっと照れくさい。
でも、そう言ってみたくなるのだ。

自分もいつか、なにか旗を振るときが来るなら。

そのときのために、今日ここで受け取った青を、しっかり心の奥にしまっておきたいと思った。
風邪薬といっしょに、そっと引き出しにしまっておくみたいに。

絵を観るときは、音楽を聴きながら歩いている。無音のままは、どうにも落ち着かない。景色と音が重なり合って一瞬の調和が生まれることを期待している。

ぼくのスマホは壁に弱い。

青森県立美術館の奥へ進むと、電波がすぐに途切れてしまう。ちょっと心細くなって、あれ、この展示の最後まで無音で行くのか?と不安になる。
それでも結局、最後に青森県立美術館のWi-Fiのパスワードを見つけて、しっかり控えて帰った。もしこれを読んでいる誰かが、同じように美術館を訪れることがあったら、少しは参考になるかもしれない。そしてなによりここで過ごす時間が、あなたにとってもナイスな展示との出会いになりますように。

青森県立美術館
佐野ぬい

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